あれやこれや

一織推しの語るアイナナつらつら

終わったものしか、永遠になれない

このところ、アイドリッシュセブンの終わりのことを考えている。

私はいわゆるソシャゲというものを多くプレイしたわけではないけれど、アイドリッシュセブンがソシャゲジャンルにおいてどこか異質であることは、なんとなくわかる。圧倒的に「ストーリーの良さ」に偏る人気。メインキャラクターの多くが人生において傷を抱え、いびつさを持ち、そうであるからこそ出会えた仲間たちとの絆は深く濃く――けれども、その傷は物語上において少しずつ克服されていく。

環が二部で語る言葉が象徴的だろう。子供じみて我儘なキャラクターが大衆に受けていた四葉環は、アイドルとして、IDOLiSH7のメンバーの経験を通して「いい子」になっていく。それを他者から「面白くなくなった」と言われても、彼は笑う。成長した自分のほうが気に入っているのだと。

大和は父との確執を乗り越え、三月はコンプレックスを克服し、ナギは兄との関係を修復した。壮五と父親の関係にも改善が見られ、最新話では母親との心の繋がりが描かれた。一織が抱えた秘密、三月とのわだかまりも解消され、陸も天との関係を新たなものにしようともがいている。環もいままさに、飛び立とうとしているところのように見える。

IDOLiSH7ばかりでなく、アイドルたちは皆、成長し、大人になり、先へ進んでいく。「裏側を見せない完璧な宝石・TRIGGER」も、「傷つけ破壊する反逆者ŹOOĻ」も過去の姿であり、より多面的なアイドルへと変貌している。

そしてメインストーリーでは、作曲家桜春樹の死を経て、とうとう、最大の謎であった「ゼロ」の物語が紐解かれようとしている。

アイドリッシュセブン」は、前へと進み、成長し、変貌する物語なのだ。

 

そして、成長物語には必ず、どこかでエンドマークがつく。

もちろん、物語の中の人物ひとりひとりの人生は、そのひとが死を迎えるまで続くだろう。けれど、それが「読まれるための物語」であり、「はじめにあった欠落」と「それを埋めていく道筋」が描かれるものであるなら――外部的な困難を与えられ、それをはねのけるのでなく、彼らが内に抱えるもの自体が困難として提示されている物語であるなら――克服と成長が書ききられたとき、その物語の役割は終わるのだ。

そうでなければ彼らが浮かばれない。

ひとつの終わりを確かに迎えながら、物語を引き延ばすためだけに、ようやく獲得した安寧を奪われるなど、傷を修復した心臓にあらたな傷を「発見」されるなど――あるいは、終わらせないためだけに、負った傷から永遠に血を流し続けるなど――あまりに哀れじゃないだろうか。

終わるはずの物語を延命するというのは、そういうことだと私は思う。それを望みたくはない。

 

勿論、まだまだ彼らは不安定で、克服すべき課題はある。けれども彼らは先へ進みつづける存在であり、だからいつかきっと、彼らの物語は終わるだろう。

そうあってほしいと切に願う。

終わりを迎えることのできなかった成長物語は、永遠性にはなれないからだ。

道の半ばで立ち止まってしまったまま、どこにも辿り着けずさまようだけの人のことを、私たちは語り続けられるだろうか。

物語が終わるからこそ、その人が選んだ選択のことを、歩んだ道のことを、見つけた居場所のことを、振り返って愛おしむことができるのだと思う。間違いや失敗があったとしても、それを含めてその人の人生を愛せるだろう。

着地する場所を誰も知らぬまま、間違いなのかそうでないのかすら語られないまま、宙ぶらりんにならないでいてほしいと思う。幸せも、もしかしたら不幸も、物語の中に描かれなければ、私たちが知ることはできない。喜ぶことも悲しむことすらも許されないまま放置されたくない。結論の出ない心配に、きっと心が疲弊して、凍結させるしかできなくなってしまう。

アイドリッシュセブンをそんな悲しい物語にしないでほしいと、切に願っている。

彼らの物語が終わる日がいつか来たら、きっと寂しくて、たくさん泣いてしまうだろう。そのときの自分の想いがエンドマークになって、初めて、物語は永遠のものになるのだと思う。

アイドリッシュセブンとは私にとってどういう存在だったのか。どういう存在であるのか。

物語が結末を迎えなければ、その問いに結論も出せない。いつまでもしまう場所を決めきれないまま、おぼろに擦り切れてしまうだろう。
そうやって失った物語が、人生にいくつかある。そのとき好きだったとは語れても、いまの自分のなかでの居場所を、うまく定められない。あいまいで、居心地の悪い物語。

 

どうかその仲間入りをしないで欲しいと、願っている。

 

――もしかしたら。かぎりなく「現実」である彼らだからこそ、美しい終わりなんてないまま、少しずつ遠くなっていく方が、大団円の「結末」など迎えず、日々に紛れて過ぎ去っていく方が、ふさわしいのかも知れないけれど。