あれやこれや

一織推しの語るアイナナつらつら

アイナナ世界のミュージカル「ゼロ」とは、私たちの「アイドリッシュセブン」かもしれない

ミュージカル「ゼロ」を経ても、「ゼロの事実」そのものは、実はなにひとつ変わらない。

なにひとつ告げることなく、前世紀のただ中に、自ら姿を消したアイドル。

比較的最近に判明した事実は、桜春樹に曲を依頼していたこと。その曲の歌詞を自分で書いていたこと。それはデュエットソングだったこと。それらの事実は長年、桜春樹の胸にしまわれ、彼が死期を悟るとともに、遺作という形で九条鷹匡の手に託された。

ゼロを超えるべく育てたアイドルと、ゼロのために書かれた楽曲を手にした九条鷹匡は、ミュージカル「ゼロ」のプロジェクトを開始する。けれど彼は、ゼロの物語にふさわしい結末を用意することができない。なぜなら彼は、ゼロがなにを考えていたのか、全く分からないままだから。

……と、そこまでが、5部開始時点での九条鷹匡の立ち位置。

5部15章16章において、遺作「Incomplete Ruler」についての事実がTRIGGERの面々と七瀬陸・和泉一織・亥清悠に共有され、それによって事態が大きく動いてゆき、最終的にミュージカル「ゼロ」はこの上ない結末を迎える。

しかし、冒頭に書いたとおり、「事実」はなにひとつ動いていないのだ。

新たに生まれたのは、ゼロの内面に関する「解釈」であり、それに納得した九条鷹匡が、七瀬陸の力を借り、TRIGGERの能力を最大限に活かして作り上げた『ミュージカル「ゼロ」という物語』、すなわちフィクション、にすぎない。

すぎないのだけれど、しかし、その「物語」、フィクションストーリーこそが、鷹匡の心を救い、ゼロを愛した人々の心を救い、ゼロに縛られた人々を解き放つのだ。

作中において実在人物である「ゼロ」が、作中の現在の時間軸において、自分の言葉で語ることはない。ゼロの歌詞を受け取りデュエット曲を作った桜春樹もすでに死者であり、語る言葉を持たない。答え合わせのような「残された言葉」が発掘されることもない。

当事者による正解の提示はない。それは必要なものとされない。なぜならアイドリッシュセブンの作品世界において、ミュージカル「ゼロ」という物語は、ゼロを見つめた人のためだけに語られ、演じられるからだ。

ゼロという、作品世界において過去、確かに生身で存在した(と人々が信じた)、もう語ることのない人物の行動、その根底にあった彼の心情を、ミュージカルにおいてゼロを演じる九条天を依り代に、ステージ上に顕現せしめ、観客は「ゼロの物語」を追体験していく。舞台上で語られる言葉たちは、かつて事実ゼロが発したものなのだろう。けれども、ゼロの発した多くの言葉のなかから選び、表情や抑揚をつけ、ひとつながりの筋書きとして仕立てたのは、九条鷹匡であり、九条天という、「ゼロではない存在」だ。

けれど観客は、そして九条鷹匡までもが、そこに「ゼロ」を見る。また会えたと涙を流し、彼への愛をふたたび強く胸に抱く。

そして物語の終盤――「事実」としてあるのは、ゼロの失踪だ。けれど舞台上で、居なくなったゼロは歌い始める。失踪後に桜春樹が作った歌、現実のゼロが歌うことのなかった歌を。そして、鏡の中から出てきたもうひとりのゼロ――七瀬陸――が、観客に促す。一緒に歌って欲しいと。それこそが、ゼロの求めていたものだと。存在しなかったハッピーエンドへと導く、欠けていたピースなのだと。

客席の歌声はゼロを振り向かせ、九条鷹匡と桜春樹がゼロのもとへと集う。

それが現実の出来事ではないと、誰もが知っている。知っていて――それでも、失踪という現実、悲しいだけの結末の繰り返しではない、その優しいエンディングをこそ、自分たちの心に寄り添うものだとして喝采を送り、涙し、歓喜する。これこそが、自分たちが見たかった物語だと。ゼロという物語の、ありうべき結末だと。

言ってしまえば、「ゼロ」という人間がこの世界に存在しなくとも、この物語は成り立ってしまう。「ゼロ」が本当は肉体を持たない、世界中で夢見られた共同幻想だったとしても。人間にしか見えない容姿をした機械であったとしても。九条鷹匡と桜春樹が巧みに作り上げた架空の人物であったとしても、「ゼロ」という物語を左右することはない。
人々がかつてゼロを愛し、九条鷹匡がゼロへの妄執を抱いている。成り立つ条件は、それしかない。

そして、この上なく美しく歌われた「Incomplete Ruler」、美しく綴られた物語「ゼロ」、それを自ら作り上げ、己の育てた九条天によって演じられたことが、九条鷹匡のゼロへの妄執を、とうとう癒す。憎しみや恨みは浄化され、ゼロへの思慕と、切ない後悔だけが胸を満たし、九条鷹匡はゼロの墓標をつくって、ゼロを丁寧に埋葬する。ゾンビも、幽霊も、二度と出ては来ないだろう。

ミュージカル「ゼロ」とは、そういう物語だった。

 

受け入れがたい現実を受け止めるために、欠けた場所を願望で繕って、ひとつながりの、説得力のある物語として編み直し、過去の歴史を物語として追体験し、自分の中の正史として受け入れる。そうすることで、ひとはようやく過去と決別し、未来へ歩いて行けるようになる。

記憶と感情を持つがゆえに、人は、事実そのものを受け入れて生きるのではなく、事実を物語として咀嚼しながら生きている。

ミュージカル「ゼロ」がえがくのは、アイドルに命を与えるものの正体だ。

アイドルを愛する人々は、ミュージカル「ゼロ」がそうであるように、「愛する者についての、説得力のある物語」の中に真実を――己が真実だと信じるものを見つけ、それに喝采を送り、涙し、歓喜する。

生身の人間が「アイドルという生命体」になるということは、たぶん、そういうことなのだろう。実在することではなく、己を通してひとつの「物語」を差し出すということ。

そして、ミュージカル「ゼロ」が最後の最後まで結末を模索した不安定さもまた、アイドルという作品、アイドルという物語の、あらかじめ用意された結末を持たない不安定さに、どこか通じるものがあるのではないか。



アイドリッシュセブン」とは、「血と肉を持つ生身の肉体」なきままに、「アイドルの物語」を、すなわち「アイドルというもの」を顕現せしめるプロジェクトなのだろう。

ミュージカル「ゼロ」が、ゼロというアイドルの真実を語ったように、アイドリッシュセブンは16人のアイドルの真実を語る。

それは物語であり、同時に「アイドルという生命」の実存でもある。

作品世界の中で、ミュージカル「ゼロ」が繰り返し演じられるたび、ゼロはひととき蘇り、「ゼロという人生」を生きる。その人生の物語は記録媒体に残り、あるいはずっと未来に再び演じられ、そのたびにゼロは「生きる」だろう。

であるならば、私たちにとってのアイドリッシュセブンも、IDOLiSH7、TRIGGER、Re:vale、ŹOOĻたちも、繰り返し、繰り返し、物語られて「生きる」のかもしれない。

けれど――まだ、そのためのピースは足りない。物語は、いつか必ず終わるものだからだ。ミュージカル「ゼロ」が苦しみながらも結末に辿り着き、そのことによって観客や九条鷹匡を大きく動かしたように。

ゼロの物語の結末、正しく美しく歌われた「Incomplete Ruler」。いつか私たちは、アイドリッシュセブンという物語の結末で、かれらの白鳥の歌を、ともに歌うのかもしれない。コール&レスポンスという形で、彼らと繋がりながら。初見ではとてもじゃないが歌えないような難しい歌を、戸惑いながら、それでも高らかに。もしかしたら、七瀬陸の歌声に導かれて。

 

ミュージカル「ゼロ」に結末をつける物語を読みながら、私が受け取ったのは、そんな未来予想図だ。

いつか、避けがたく終わりが来て、アイドリッシュセブンは永遠を得るのだろう。

そのとき、お別れを言えてよかったと、ありがとうを伝えられてよかったと、笑えますようにと、願っている。